目指せ!47歳からの司法書士受験!

法律初学者のおっちゃんが合格するまでやりますよー

刑法の勉強(3)

今回は、前2回よりも少し具体的で、司法書士としての仕事にも関係しそうな話です。

 

●後見人と親族相盗例

未成年者に親権を行うものがいないとき、または親権を行うものに管理権がないとき、未成年後見が開始して未成年後見人が選任されますね。また成年後見制度でも、成年後見が開始すると成年後見人が選任されます。未成年後見人と成年後見人をまとめて後見人と言うことにして、後見人の任務というのは基本的に被後見人の財産管理です。判断能力の未発達な未成年者や、判断能力を欠く常況にある成年被後見人に管理を任せていたのでは、不適切な処分によって財産を失ったり、悪意のある者に騙されて財産を奪われたりする危険が大きいので、裁判所によって選任された後見人が代理して管理し、被後見人を保護するのでした。

成年後見人に選任されるのは祖父母やおじ・おばなどの親族が多く、成年後見人は司法書士や弁護士などの専門職が多いと聞いたことがありますけど、これは被後見人にとってそれが最適という場合が多いからだと思います。未成年者にとっては顔見知りの親族が近くにいれば安定するでしょうし、多額の資産を持つ成年被後見人には専門職を付ける方が安全確実な感じがしますね。もちろんその辺りは、個々の事情によって変わってくるのでしょう。

ところで、成年後見人も以前は親族も多かったそうですが、次第に専門職が増えていったのですよね。それは、親族による横領が多かったため、とされています^^; つまり、親が認知症になってしまって子が成年後見人に選任された場合、子が親のお金を勝手に使い込んでしまう、といったことが相次いだのですね。親の財産はいずれ自分が相続するのだからちょっとくらい…という程度の軽い気持ちなのかもしれませんが、これは横領に当たります。それが問題視され、確実に任務を遂行してくれそうな専門職を選任するようになった、という経緯があるのです。しかしそうすると誠実な親族であっても選任されにくくなり、成年後見制度なんて融通の利かない使いにくい制度だと思われる一因になってしまっているのですよね。そこで最近はまた親族を成年後見人に選任するケースが増えているそうですが…う~ん。

 

ところで、刑法にはこんな規定があります。

刑法244条1項 配偶者、直系血族又は同居の親族との間で第235条の罪、第235条の2の罪又はこれらの罪の未遂罪を犯した者は、その刑を免除する。

一定の親族間での一部の犯罪行為について、その刑を免除する「親族相盗例」の規定です。条文の中の235条の罪は窃盗罪、235条の2の罪は不動産侵奪罪のことで、さらに詐欺、恐喝、背任、横領などの犯罪が成立した場合に、この規定が準用されます。つまり、犯罪は成立するけど処罰はされないのですね。これは「法は家庭に入らず」というローマ法以来の考え方によるというか、家庭内のことは家庭内で解決するのが良いとの考えからできた特例と言われています。自分の子供が家に帰ってきたかと思ったらうまい話があると言って乗せられて結局お金を巻き上げられたとか、兄が弟の貯金箱からお金をくすねていったとか、そういうのはどの家庭でも起こりうることですよね。でもそれは国家の捜査機関が介入するのではなく、家庭の中で折り合いを付けなさい、ということです。政策的配慮ということですね。

 

ところが、親族相盗例を逆手に取るような未成年後見人が現れたのです。母が死亡した未成年者Aの未成年後見人に、Aの祖母Bが選任されました。Aは母の相続人であり、生命保険金の受取人でもあって、多額の財産があったのですね。それでBがAの財産を管理していたのですが、Bは別の親族と共謀してAの財産を引き出し、2年ほどの間に約1,500万円も使ってしまったのでした。これはヒドイ^^;

BはAの未成年後見人であり、Bの行為は業務上横領に当たります。その一方で、BはAの直系血族なので、親族相盗例の規定が準用されて刑が免除されるとも考えられます。被告人Bはまさにそう主張しました。それに対して最高裁は、未成年後見人は未成年者と親族関係にあるかどうかの区別なく誠実に財産管理をするべきだと述べた上で、

成年後見人の後見の事務は公的性格を有するものであって、家庭裁判所から選任された未成年後見人が、業務上占有する未成年被後見人の財物を横領した場合に、上記のような趣旨で定められた刑法244条1項を準用して刑法上の処罰を免れるものと解する余地はないというべきである。

として親族相盗例を認めませんでした(最決H20.2.18)。親族相盗例は“法は家庭に入らず”ということから家庭の自律に委ねる規定ですが、未成年後見人の後見の事務は公的性格を有するため、未成年後見人が未成年者の財産を横領した場合は家庭内だけの問題と考えることはできないのです。また、仮に親族相盗例を認めると、立場の弱いAが立場の強いB(とその親族)にいいように財産を使われることになり、かえって立場の強い方が保護される結果になりかねません。なので、Bの横領に親族相盗例が準用されることはなかった、というわけなのですね。

 

同じことは、成年後見人と成年被後見人にも当てはまります。成年被後見人の養父が成年後見人に選任され、成年後見人が被後見人の財産を業務上横領したケースで、最高裁は上記最決H20.2.18を参照し、

家庭裁判所から選任された成年後見人の後見の事務は公的性格を有するものであって、成年被後見人のためにその財産を誠実に管理すべき法律上の義務を負っているのであるから、成年後見人が業務上占有する成年被後見人所有の財物を横領した場合、成年後見人と成年被後見人との間に刑法244条1項所定の親族関係があっても、同条項を準用して刑法上の処罰を免除することができない…

と述べて親族相盗例を否定しています(最決H24.10.9)。そりゃまあ当然ですね。しかも、これら2つの事例はどちらも親や祖父母といった尊属の財産を子や孫といった卑属が使ってしまうのではなく、卑属の財産を尊属が使ってしまうパターンなのですよ。それがまた、これらの事例が卑劣で受け入れ難いものに感じられる原因になっている気がします。

 

こういう感じで、親族が他の親族の財産に手を付けてしまうということはよくあることのようです。だから未成年後見人はともかくとして成年後見人は専門職が選任されることが多かったのですけど、残念なことに弁護士や司法書士のような法律の知識があって高い職業倫理を持っていると考えられる人たちが選任された場合でさえ、被後見人の財産を横領してしまう事件が後を絶たないようなのです。使いにくい仕組みだと言われている成年後見制度をわざわざ使うのは、おそらくよっぽど財産が多くて、法的に厳格に管理したいというニーズがあるからでしょうね。しかし、いくら弁護士や司法書士といえども、多額の財産を目の前にしたら、ついつい魔が差してしまう…ということも充分考えられます。後見人を複数にするとか、後見監督人を付けるとか、裁判所の関与を年に1回の報告書提出だけでなくもっと増やすとかの対策も考えられますけど、そうすると今以上に面倒で使いにくいとか言われそう。難しい問題ですね^^;

 

自分は司法書士になったら成年後見の仕事もしたいなと思っていますが、基本中の基本として自分のお金と他人のお金は厳密に区別しておこうと思います。まずは李下に冠を正さず、瓜田に履を納れず、ですね^^;

刑法の勉強(2)

もう一つ、とても興味深い判例がありました。大学法学部では必ず習うのだそうですね。楽しそうだな〜^^

 

●「たぬき・むじな」と「むささび・もま」

犯罪の成立には、原則として故意が必要です。故意とは他人の権利や法益を侵害することを認識しながら、それを容認して行為を行うことです。「人を殺そう」と思って実行に及んで死なせたら殺人罪が成立するのですね。なぜ故意が必要かというと、故意がある場合は強く非難でき、責任を問えるからでしょう。たとえば「人を殺してはいけない」というルールを法律で定めたとすると、人々は犯罪に当たる事実(人を殺すこと)を認識し、それが違法な行為なのだと知ることができます。にも関わらず、あえてそのような違法な行為に及ぶことを決意した人に対しては、その点に強い非難可能性がある、ということです。そして故意があるかないかは、同じ結果であっても成立する犯罪に大きな違いとなって表れてきます。ある行為によって人が死んだという結果が残ったとき、故意があれば殺人罪が成立するのに対し、なければ過失致死罪または犯罪が成立しないとされるのです。だから故意があるかどうかは、とても重要なところなのですね。

 

で、故意についての有名な判例として、「たぬき・むじな事件」と「むささび・もま事件」がセットで出てくるそうですよ。どちらも大正時代の話で、当時「たぬき」と「むささび」は狩猟法によって捕獲が禁止されていました。そんな状況下でこんなことが起こったのです。

ある人が「むじな」を捕獲した。しかしそれは「たぬき」だった。

ある人が「もま」を捕獲した。しかしそれは「むささび」だった。

…何を言っているのか分からないですね^^; 「たぬき・むじな」では、「むじな」と思って捕まえたら、それは実は禁猟とされている「たぬき」だった、ということです。同じように「むささび・もま」では、「もま」と思って捕まえたら、それは実は禁猟の「むささび」だったのです。というか、何と「たぬき」と「むじな」、「むささび」と「もま」は、それぞれ同じ動物なのですよ。だから「むじな」「もま」と思って捕まえると、現実としては「たぬき」「むささび」を捕まえたことになってしまうのですね。しかし捕獲した人はそう思っていなくて、「たぬき」「むささび」が禁猟であることは知っていたが「むじな」「もま」はそうではなく、自分が捕まえたのは「むじな」「もま」だと思っていたのです。つまり2つの事例は、動物の種類が違うだけで、やっていることは同じなわけですよ。それで、禁猟鳥獣である「たぬき」「むささび」を捕獲したために狩猟法違反で起訴されたのですが、その結果どうなったかというと、

▼たぬき・むじな→無罪(大判T14.6.9)

▼むささび・もま→有罪(大判T13.4.25)

と、正反対の判決が出てしまったのでした。ほとんど同じ時期にまったく矛盾することを言うなんて、大審院はむささび猟は罰するけどたぬき猟は放置するつもりなのか!と思ってしまいますが別にそうではないようです笑

 

故意があるとするためには、意味の認識がなければいけません。何らかの動物を捕まえたとして、それが「たぬき」「むささび」であるとの認識があって初めて故意があると認められるわけですね。そして、この認識は一般人が普通に理解する程度のものでよく、「たぬき」や「むささび」について動物学的な特徴が分かるとか、自分の行為が刑法の構成要件に該当するかどうかとかいうような、専門家レベルの認識は不要です。たとえば覚醒剤の化学的な成分などを知らなくても、それが「身体に有害で違法な薬物」という程度の認識があれば、意味の認識があったとされるそうですよ。

それでまず「たぬき・むじな」の判決文を見てみましょう。

…学問上の見地よりするときは狢は狸と同一物なりとするも、斯の如きは動物学上の知識を有する者にして甫めて之を知ることを得べく、却て狸、狢の名称は古来並存し、 我国の習俗亦此の二者を区別し、毫も怪しまざる所(なり)。…法律に捕獲を禁止する狸なるの認識を欠缺したる被告人に対しては、犯意を阻却するものとして其の行為を不問に付するは固より当然なり…。

なんちゃって意訳してみると、大正時代よりもずっと昔から、日本の習俗の中でたぬきとむじなは別の動物と扱われてきました。大正時代になってからも「たぬき」と「むじな」は別という古来からの認識を疑う人はほとんどおらず、同じ動物という事実を知っているのは動物学を専門に勉強した人くらいだったそうです。それなら「たぬき」を捕まえたとしても、その動物を「むじな」だと思っていたら「たぬき」と認識できなくても無理もないことですよね。そして、法律上捕獲を禁止されている「たぬき」であるとの認識が欠けていたのだから、故意を阻却して被告の行為を不問に付すのは当然だ、とされたのでした。

次に「むささび・もま」の方はというと…

むささびと「もま」とは同一物であるに拘らず、単に其の同一なることを知らず「もま」は之を捕獲するも罪にならずと信じて捕獲したるにすぎざる場合に於いては法律を以て捕獲を禁じたるむささびすなわち「もま」を「もま」と知りて捕獲したるものにして、犯罪構成に必要なる事実の認識に何等の欠缺あることなく唯其の行為の違法なることを知らざるに止まる

こちらの判決文は手持ちの本やネット上で原文が見付からなかったので、LECの予備試験向け判例集から引用しました。そこでこちらもなんちゃって意訳すると、むささびと「もま」は同じ動物ですが、そうとは知らずに「もま」を捕まえても犯罪ではないと信じて捕獲したに過ぎないときは、法律で捕獲を禁じているむささび即ち「もま」を「もま」として捕獲したということです。だから事実の認識に欠けるところはなく、単にその行為が違法であることを知らなかっただけだ、とのこと。仮に「むささび」という言葉を知らないとしても、飛膜があって木から木へと滑空して飛び移る小型の動物という程度の特徴を知っていれば、一般人ならそれが禁猟の「むささび」であるとの認識を持つことは可能、だから故意が認められる、ということのようです。それにしても、法律を知らなかったオマエが悪い!と言われちゃったら、そりゃお手上げですよねぇ^^;

 

個人的には、「たぬき・むじな」と比較すると「むささび・もま」には論理の飛躍を感じます。「たぬき・むじな」では、「たぬき」を捕まえてもそれは「むじな」と認識され、「たぬき」とは認識できないのだから故意はない、というのですよね。それなら被告人にとっての「たぬき」は「むじな」ではない別の動物と認識されていたのでしょう。一方「むささび・もま」では、「むささび」を捕まえてもそれは「もま」と認識されて「むささび」とは認識できないのだから、被告人にとっての「むささび」は「もま」ではない別の動物と認識されているはずです。判決文からは被告人が「むささび」をどんな風に認識していたかは読み取れませんが、そこが明らかにならないと「もま」=「むささび」だから故意が認められる、とは言えないんじゃないかな…と思えてしまいます。

それと「たぬき・むじな」は日本古来の習俗に社会が影響を受けている、だから被告の認識がそうなるのも仕方ない、ということですが、これって論理的には「みんな言ってるよ」というのと何が違うのでしょう? 日本古来の習俗云々というのはつまり、「たぬき」と「むじな」は別の動物だとみんな言ってるよ、だから「たぬき」を「むじな」と認識しても仕方ないよね、ということです。一方「もま」は方言で、「むささび」と「もま」が違う動物という認識は社会で一般的なものとは言えなかったようです。すると「たぬき・むじな」の論理がOKとするなら、「むささび・もま」では「むささび」と「もま」は同じ動物だとみんな言ってるよ、だから「もま」を捕まえたオマエは犯罪者なのだ!とも言えそうですけど、裁判官にこんな幼稚なことを言われたら困惑せざるを得ませんね^^;

 

これら2つの判例は学説が出尽くしたと言われるほど議論されてきたそうなので、上に書いた自分の疑問もスッキリと解消されているのだろうと思います。司法書士試験が終わったら、そういう学説などを探してみますね^^

刑法の勉強(1)

個人的に、刑法ちょっと苦手です^^; というか、抽象的な理論的なことだけを覚えるのならまだいいのですけど、問題文に出てくる具体例が結構エグいことが多いのです。たとえばこんな感じです。

Aは、多数の仲間らと共に、長時間にわたり、激しく、かつ、執ようにBに暴行を加え、隙を見て逃げ出したBを追い掛けて捕まえようとしたところ、極度に畏怖していたBは、交通量の多い幹線道路を横切って逃げようとして、走ってきた自動車に衝突して死亡した。この場合において、Aの暴行とBの死亡の結果との間には、傷害致死罪の因果関係がある。(平成25年 問24-オ)

因果関係についての問題。答えは○なのですが…、読んでて気分悪くなってきません? これは最決H15.7.16をもとに作られたもので、「高速道路進入事件」という名前が付いている通り、Aらから逃げるために高速道路へ進入したBが車にはねられ死亡した事件です。しかも第一審では、Bには逃走先の選択肢がいろいろあるし、高速道路に入ることは予想外の行動だから、暴行の危険が現実化したものとはいえないとして因果関係を否定したというのも、一層胸糞悪く感じます。それに対し控訴審は因果関係を肯定して傷害致死罪の成立を認め、最高裁も「(Bの行動は)著しく不自然、不相当であったとはいえない」としているのにはちょっとだけ溜飲の下がる思いがしますね。

まあでもそういう血腥い事例ばかりでなく、ほのぼのした雑学クイズみたいな問題も出題されたりしますよ。

ゴルフ場で、池の中に落ちたまま放置されたいわゆるロストボールは、仮に、そのゴルフ場において、後に回収し、ロストボールとして販売することになっていたとしても、もともとは客が所有していたボールであり、客が所有権を放棄したのであるから、無主物であって、これを盗んでも窃盗罪にならない。(平成20年 問26-ウ)

池ポチャしたボールってどうなるの?ということで、ゴルフ場がロストボールの回収・再利用を予定していた場合はゴルフ場管理者に占有があるとされています。勝手に持ち帰ると窃盗罪が成立してしまうのですね(最決S62.4.10)。なので答えは×です。

全部が全部こういう問題ならいいのですが、たいていは金属バットで殴りかかってきたから鉄パイプで反撃したとか、包丁を刺したら血が噴き出して驚いたとか、4歳の子に死のうと言ったら同意したから殺したとか、殺害後ふと見たら財布があったから盗んだとか、イヤになるほど殺伐としているのです。気が滅入っちゃいますね。そして、実際に起こった犯罪について法的に考えていかなければいけない法曹の方々って凄いなぁと思います。自分には無理だな^^;

しかし、そうはいっても刑法は犯罪を扱う科目なのだから、ある程度は仕方ないのですよねぇ。犯罪だって社会の現実であることは確かなのですし、誰だって絶対に無関係とは言い切れません。まして試験科目の一つなんだから、3問中2問は取りたいところ。ということで、気を取り直して個人的に面白かった(というと語弊があるかもですが…)判例を見ていきたいと思います。

 

●ガソリンカー事件

罪刑法定主義が問題になった事例として有名だそうですね。罪刑法定主義とは、犯罪と刑罰は予め法律で定めておかなければいけない、という刑法上基本中の基本のことです。「法律なければ犯罪なし、法律なければ刑罰なし」ですね。そして罪刑法定主義から派生して、被告人に不利な類推解釈は許されないとされています。類推解釈というのは、Xについて法律の規定があるとして、YはXと似ているから、Xについての法律の規定をYに適用してもよいとする解釈の仕方です。よく出てくる例としては、刑法134条1項が医師による秘密漏示を処罰すると規定しているところ、看護師は医療従事者である点が医師と似ているから、看護師にも適用する、というもの。これは裁判官が勝手に法律を作るようなものだし、一般の人からしたら何が犯罪とされるのか前もって分からないのではたまったもんじゃないので禁じられているのですね。一方、拡張解釈は許されます。規定の趣旨や目的に沿って言葉の意味を広く考えるという意味で、たとえば230条1項(名誉毀損罪)の「人の名誉」というときの「人」には、自然人だけでなく法人も含まれる、というようなことです。もっとも、どこまでも無限に拡張できるわけではなく、言葉の意味からして拡張可能な範囲の限界というものがあるはずです。医師と看護師で言えば、医師という言葉に看護師を含めるのはやっぱり無理でしょう、ということですね。

 

さて、ガソリンカーとは現在の一般的な自動車と同じようにガソリンを燃料として使用する鉄道車両のことです。気動車の一種であり、この意味では「汽車」と書くこともできます。戦前の鉄道は、動力といえばまず蒸気機関でしたが、運行回数を増やしたりコストを抑えたりするために、次第にガソリン動車が普及していきました。しかし戦争中ガソリンが不足し、さらに火災事故を起こしてガソリンカーの危険性が認識され、戦後はディーゼルカーへと置き換えられていったのでした。

で、戦前のある日のこと、三重県の鉄道会社が運行していたガソリンカーが6分遅れで発車し、遅れを取り戻そうとした機関士が制限速度を大幅に上回る速度で急カーブに突っ込み、脱線転覆させてしまいました。乗客2名が死亡し、80人以上の負傷者が出た大事故です。そしてこの機関士が過失汽車転覆等罪(129条)に問われたわけですけど、ここで刑法の条文を見てみましょう。

刑法129条1項 過失により、汽車、電車若しくは艦船の往来の危険を生じさせ、又は汽車若しくは電車を転覆させ、若しくは破壊し、若しくは艦船を転覆させ、沈没させ、若しくは破壊した者は、30万円以下の罰金に処する。

鉄道の話としては、汽車と電車は出てくるけど、ガソリンカーという言葉は出てきません。そこで被告人は、刑法129条の客体にガソリンカーは含まれていないのだから適用することはできないと主張したのです。しかし当時の大審院は、

…汽車ナル用語ハ蒸気機関車ヲ以テ列車ヲ牽引シタルモノヲ指称スルヲ通常トスルモ同条ニ定ムル汽車トハ汽車ハ勿論本件ノ如キ汽車代用ノ「ガソリンカー」ヲモ包含スル趣旨ナリト解スルヲ相当トス

と述べて退けたのでした(大判S15.8.22)。汽車という言葉は蒸気機関車が牽引する列車のことだけど、そこには汽車代用のガソリンカーも包含されるのだ、ということです。これは面白いですね。ガソリンカーは蒸気機関車の代用と認識されていたんだなぁ…とか。それはともかくこのように判断した理由は、刑法129条の趣旨は往来の安全を妨げる行為を禁止することであり、動力の違いがあっても蒸気機関車と同じく線路上を走行し客貨を輸送するガソリンカーは汽車に含まれるから、ということなのでしょう。

ここで、蒸気機関車とガソリンカーは似たようなものだから…としてしまうと、類推解釈になってしまいます。そうではなくガソリンカーは汽車代用の車両だから汽車に包含されると考えれば、これは汽車を拡張解釈していることになるからOKというわけで、判例も上記のようにちょっと回りくどい言い方をしなければいけなかったのでしょうね。今は気動車が当たり前に存在しているから気動車であるガソリンカーが汽車に含まれると言われても不自然に感じませんが、この当時はまだガソリンカーのようなものは珍しかったでしょうし。むしろ刑法の条文に「電車」という文言が入っていることは、法律としては当時の最新トレンドに対応していたとさえ言えそうです笑 それにしても、判例のこのへんの理屈というか、類推解釈と拡張解釈の違いは結構微妙で難しいですね^^;

 

おっと、長くなってしまったので、次回に続く。

首都高速都心環状線の改築

東京の日本橋といえば、橋の真ん中に日本国道路元標が埋め込まれた、いわば日本の道路の起点です。国道1号、4号、6号、14号、15号、17号、20号は実際に日本橋を起点として東京から各地へ伸びていきますよね。また、中央区の街としての日本橋は江戸時代から下町の中心として栄え、現在も多くの商業施設が集積しています。昔懐かしい情緒と、新しさや利便性がうまく融合して、いかにも現代の東京らしい街だなと思います。

それで、橋としての日本橋日本橋川という江戸期に開削された人工河川に架かる橋なのですけど、さらにその上に首都高速都心環状線の高架橋が覆い被さっているのです。都心環状線のこの区間は1963年、前の東京オリンピックの前年に開業した、首都高速の中でも特に古い部分なのですね。この頃は高度成長期の真っ只中で都心の交通量が急増していたし、東京オリンピックもあるしで首都高速道路の建設は急務とされていたのでしょう。そこで、土地の買収の手間が省ける河川上の空間を利用することにしたのでした。日本橋付近は日本橋川の上空に高架橋を通し、江戸橋JCTから南へは築地川や楓川を埋め立てて堀割のような構造にしています。このあたりは当時から高度に市街地化が進んでいたところで、河川のスペースを使えなかったら下手すれば未だに開通していない可能性さえありますよね^^; 1960年代に都心環状線が全線開通できたのには、こういう方法で建設したから、という部分は大きいと思います。

 

時は流れて、日本橋日本橋川の上に首都高速が被さっているのが当たり前の風景になってくると、今度は日本橋の上に何もなかった頃が懐かしい、日本橋に青空を取り戻せ!みたいな声が聞かれるようになりました。伝統ある日本橋の景観を、高速道路の高架橋がぶった切っているなんてけしからん!ということでしょうか。一時期、高速道路の高架といえば排ガスや振動騒音などの公害の原因と見なされていましたし、昔は今ほど自動車の排ガス浄化性能も高くなかったので、本当に空気が汚かったと思います。環境規制が格段に厳しくなった現在はそこまで酷くないはずですが…。しかしまあ、頭上に高架橋がない方がスッキリしていいよね、ということで、このようなプロジェクトが進行しています。

www.shutoko.jp

何と、日本橋付近の首都高速をトンネルで地下化してしまおう!という壮大な計画です。2018年度に公表された概算事業費は約3,200億円! 物凄い金額ですね。しかも、現実的にはこれで済むはずがないだろうなという^^; それはともかく、地下化するのは神田橋JCT〜江戸橋JCTで、トンネル前後の取付部を含めて事業区間は約1.8km。これにより、日本橋付近から高架橋が消えるとともに、川べりに遊歩道ができたり、地下トンネルの上の再開発を進めるなどして、さらにオシャレで商業経済活動の盛んな街にしようというわけですね。江戸橋JCTの改良も目玉の一つと言ってよく、都心環状線竹橋JCT方面と汐留JCT方面の相互間は今の八重洲線とKK線への連絡路(8号線)をつないだ神田橋JCT〜京橋JCTを使って連絡し、江戸橋JCTでは都心環状線の西方向と南方向への接続は廃止されるようです。現状の江戸橋JCT付近は首都高速屈指の渋滞ポイントになってしまっていますが、これが少しでも解消されるといいですね。

気になる完成の見込みは、地下化した高速道路の開通が2035年、高架橋の撤去完了が2040年とされています。これだけの大規模プロジェクトなのだから時間がかかるのは分かりますが…完成はまだまだ先の話ですね^^;

 

あ、それで都心環状線の新しいルート「新京橋連絡路」はこちらに解説があります。

trafficnews.jp

今までどうにもマイナー路線のイメージが強かった八重洲線や、利用者にはその存在が周知されていなかった8号線が、都心環状線の一部としての重責を担うことになるなんて、長年二線級の地位に甘んじて耐えてきた甲斐があったというものだ、大出世できて良かったね!と思わず声をかけたくなってしまいます笑 その一方で、KK線すなわち東京高速道路が廃止されてしまうのはとても残念。高架道路と店舗等が一体化した構造は意外と珍しく、これだって将来に残すべき東京の一風景だと思うのですけどねぇ…。それと、気になるのは晴海線との接続。現在は10号晴海線として東雲JCT〜晴海出入口間が開通していますが、この路線はさらに都心方向に延伸して都心環状線と接続する計画があるのです。それがちょうど現在の新富町出口あたりで、単なる出口にしてはやたら大げさな構造物が作られているのは、将来晴海線の下り線を分岐するためなのです。でもこのあたりに新京橋連絡路が接続することになったので、晴海線の分岐を廃止するそうなのですね。となると、晴海線の接続はどうするんでしょう? 新京橋連絡路が完成してから改めて検討するって感じになるんでしょうかね。気の長い、というか気の長すぎる話だなぁ…生きているうちに晴海線の完成が見られるのかな^^;

 

ちなみに自分は日本橋の高架橋がなかった時代なんて知らないし、むしろ街中に高速道路の高架が通っているのは都会らしいとさえ感じます。だから日本橋の高架が撤去されるのは、青空を取り戻すというよりは、橋としての日本橋が雨ざらしになってしまって可哀想だな、と思います。まあしかし、日本橋付近の地下化や江戸橋JCTの改良は、これはこれで興味深いのです。もう作ることは決まっているのだから、できるだけ早く完成するといいですね^^

3月になりました!

今年も始まったばかりだよなぁ…と思っていたら、もう3月ですよ。1〜2月は夜の隅田川沿いのテラスは冷たい風がビュービュー吹いてジョギングすると手が真っ赤になってしまっていましたが、今週に入ってから急に気温が上がってきて、かなり汗をかくようになりました。でもやっぱり暖かくなると走りやすくなるというか、走る気になりますよね。寒いのは本当にツラいです笑 それはともかく、もう3月ということは、本番まで残り4ヶ月。そろそろ直前期として本番を意識した勉強の進め方にしていく時期でしょう。緊張してきますね^^;

 

昨年の反省から今回やるべき対策としては、何と言っても午後のスピードアップです。正直、多肢択一も記述も、どちらも時間が足りませんでした。そこで今回は、①多肢択一を1時間で解く、②不動産登記法商業登記法のうち、書くべきことをすぐ組み立てられそうな方から解く、というやり方でやっていこうと思います。①については、頻出の定型的な問題は少し読んで反射的に解答できるくらいにしたいですね。基本的な知識を確実に記憶すること、一問一答式の過去問集を繰り返し練習することで、時間短縮を図れるのではと思います。具体的な目標時間は、不動産登記法商業登記法以外の11問を1問1分として11分、多肢択一全体を60分としたいところ。前回の試験では多肢択一だけで1時間20分(80分)も使ってしまい、記述を解く時間にまったく余裕がなくなってしまいました。いや、仮に多肢択一が60分で解けたとしても記述2問で120分ではやはり余裕はないのですけど、要は多肢択一がそれくらいの時間で解ける程度の実力がなければ記述で合格点が取れる可能性は低いだろうな、と思うのです。まあ、そのためには頻出の基本問題は絶対に落とさないという確実性が必要でしょう。

次に②の記述式は、スピードアップといってもなかなか難しいところです。資料の読み方とか、メモの仕方とか、いろいろ工夫のしどころはあると思うのですが、自分はまだちょっとコレ!という定番の解き方みたいなのが見付けられていません。どうしたものかなぁ…。取りあえず、あまり難しい問題や複雑な問題(オートマのようなもの。面白いんですけどね…)は避け、スタディングで提供されている基本問題を完璧に解けるようにして、あとは過去問を繰り返し回していこうと思います。本番の採点がどんな風にされるのかもよく分かりませんけど、とにかく書けるところは書くって感じでやるしかないですよね^^; ただし、まずはざっと問題文を読んで、不動産登記法商業登記法のどちらがより書けそうかを判断することが必要でしょう。前回は不動産登記法が相当に難しくて、それに比べると商業登記法はまだしも取っつきやすい感じでした。そういう場合は、商業登記法を解答してから不動産登記法に取りかかる方が、全体としては得点が高くなりそうな気がします。まあ分からないですけど。

 

午前は時間がある分、じっくりと問題文を読むことができます。それだけに、例年基準点も合格点もハイレベルですよね。前回はどうにか基準点(27問正解・81点)に達しましたが、それだけでは到底合格は望めないので、もっと上乗せしなければいけません。憲法・刑法で1問、民法で2問、会社法で2問落としたとして合計5問、つまり30問正解というあたりが現実的な目標でしょうかね。憲法・刑法で1問、民法で1問、会社法で1問落とす、つまり32問正解できればかなり楽になりますが…。令和3年度試験の得点順位別員数累計を見てみると、30問正解(90点)の人は上位13.38%、32問正解(96点)なら上位5.32%に入ります。しかし、司法書士試験全体の合格率が5.14%であることを考えると、上位13%とか5.3%は当たり前にクリアすべきところなのですよね。う~ん、ここ数年ちょっとだけ合格率が上昇しているとはいえ、やっぱり厳しいな笑

 

一応、12日の伊藤塾プレ模試は受けてきますよー。だんだん暖かくなってきたけど、体調管理に気を付けて頑張りましょう^^

株主と債権者

今、手元に1億円あるとします。このお金は、自分の生活や事業には関係なく“お小遣い”として使えるとしましょう。これをあるギャンブルに全部突っ込むと、

① 99%の確率で2億円になるが、1%の確率で0円になる

としたら、賭けてみますか? これ、ほとんどの人は「やる!」というのではないでしょうか。だいたいの場合は2億円になるのです。それに対してゼロになる確率はたったの1%。それならやらない手はないですよね。仮にゼロになっても、それ以上のリスクはないのですから。

それでは、自分の資金はゼロだけど、資金力豊富かつ回収の厳しい金融業者(帝愛グループみたいなものを想像してください笑)が1億円融資してくれるという条件で、

② 99%の確率で2億円になるが、1%の確率で0円になる

というギャンブルがあったら、賭けてみますか? 99%は、2億円のうち1億円(+利息等)を差し引いた残額がまるまる手元に残ります。つまり、ほぼほぼ1億円が手に入るのです。しかし残りの1%に当たってしまうと、地下王国での強制労働が待っている…とすると、ためらう人も出てくるでしょうね。

それでは、自己資金ゼロ、資金力豊富かつ回収の厳しい金融業者が1億円融資してくれるという条件で、

③ 1%の確率で2億円になるが、99%の確率で0円になる

というギャンブルならどうですか? だいたいの場合は負けるのです。これはもう、やる人はいないでしょう笑

 

さて、株式会社が事業で収益を上げること以外に資金を調達する方法としては、株式を発行して出資を募るか、社債発行や金融機関からの融資といった借入をするか、大まかにこの2通りが考えられます。出資した人は株主になるし、お金を貸した人は債権者になるのですよね。それで、会社法の試験対策としては株主の権利はどんなものがあるとか、債権者に対してはこういう保護手続があるとか覚えていくのですけど、今回はそういう話ではなく、株主と債権者の行動原理みたいなものを見ていきたいと思います^^

 

そこでまず、株主と債権者との立場の違いを改めて考えてみると、株主は会社にお金を出資しますね。そのお金は会社のものになるのであって、一度払い込んだ出資金は返還されません。その代わり、会社が業績を上げて剰余金が発生すれば、そこから配当を受け取れます。しかしこの配当はいつ支払われるか決まっているわけではなく、金額も決まっておらず、会社の業績によるのですね。会社が儲かっていればたくさん配当がもらえるし、期末だけでなく中間配当を実施するかもしれません。逆に儲かっていなければ配当ゼロということもあり得ます。一方、債権者も会社に対してお金を出すところは株主と同じですが、それはあくまでも貸すのであり、債権債務の関係になります。そして、契約等であらかじめ決まった日に、あらかじめ決まった金額(元本+利息など)を、会社が債権者に対して弁済することになります。会社の業績がどうなろうと関係なく、債務を履行しなければいけません。

次に、会社法上株主よりも債権者の方が優遇されていることが多いです。たとえば会社を清算するときは、まず債権者に弁済して、それでも残余財産があったとき初めて株主に回ってきます。会社が清算するときって経営が上手くいかなくて倒産する場面が思い浮かびますけど、そんなときの残余財産は債権者に弁済するだけでゼロになってしまうでしょうね。つまり、残余財産については債権者が優先されているのです。また上記した剰余金の配当も、債権者の取り分をしっかりと確保してからでなければ株主には回ってきません。それをやっているのが分配可能額による財源規制です。大まかにいえば資産から負債を差し引いた額が資本金を下回る場合には、株主への配当ができないのですよね。資本金がマイナスになることはありませんので、必ず資産が負債よりも大きくなければ株主への配当は行われず、したがって負債と同額になるまでの資産(=債権額と同額)は必ず確保され、その結果債権者が保護されることになります。さらには残余財産や配当以外にも、資本金の減少や組織再編には債権者保護手続が定められていますよね。株主がいくら株主総会で決議をしても、債権者保護手続が完了していなければ効力が生じません。これも債権者優先と言っていいと思います。なお、細かく見るとそうなっていないところもあるのです。たとえば株主からの単元未満株式の買取請求には財源規制が適用されませんが、これは株主の権利を債権者の保護よりも優先したからでしょう。

そしてもう一つの違いは、株主は経営に関与できる、ということです。会社の経営は直接的には取締役が行いますが、株主は議決権行使という形で経営にあたる取締役を選任できるわけで、取締役を通じて間接的に会社を経営していると言えますね。一方、債権者にはこのような権限はありません。会社に何億円とか何十億円とかの巨額の融資をしていてもです。もっとも、銀行から融資を受けるために銀行からの助言(実質は銀行の指示)に従って事業を進める、銀行から役員を受け入れる、といったことは割と普通に見られます。そういうのなんてモロに債権者が経営に関与しているじゃないかと思うわけですけど、会社法の話とはちょっと違いますね^^;

 

会社にお金を出すという点では株主も債権者も同じなのに、株主は経営に口を出せるけど、債権者は(普通は)できないのはどうしてでしょう? これは、合理性のある経営により社会的効用の増大が期待できるから、なのだそうです。債権者は、自分の債権が回収できればよく、それ以上の利益には関心を持たないでしょう。だから債権者が経営者だったら、債権回収に必要となる以上のリスクを取ることは避けるはずです。一方、株主は会社の儲けが増えれば増えるほど自分の取り分も増えていくわけだから、多少のリスクがあっても儲けが見込める事業には果敢に乗り出していくと考えられます。

たとえばある会社の資産が3億円、負債が2億円あるとしましょう。ここで、ある事業を行うと99%の確率で資産が4億円になるけど、1%の確率で資産がゼロになるとしたら、この事業をやるべきでしょうか? 債権者から見ると、自分の債権がパーになる確率が1%でもある事業には手を出したくないと考えるはずです。何しろ現状維持なら確実に債権が回収できるのですし、しかも資産が4億円になろうが5億円になろうが、それは債権者には関係のないことです。それなら余計なことはしないでくれ、と思うことでしょう。しかし一般的な感覚からすると、やった方が良さそうな気がしますね。まず失敗しないのだから、やればいいじゃないか、と思う人が多そうです。そして株主も当然やると言うでしょう。99%の確率で自分の取り分が増えるのだから、やらないはずはありませんね。

では、ある会社の資産が1億円で、負債が2億円あるとしましょう。つまり債務超過で倒産寸前という状況です。ここで、ある事業を行うと99%の確率で資産が2億円になるけど、1%の確率で資産がゼロになるとしたら、この事業をやるべきでしょうか? 株主としては、どちらにしても配当を受け取ることはできません。資産がゼロになったらもちろんのこと、資産が2億円になっても負債を弁済したらなくなってしまいます。とはいえ何もしなければそのまま会社が清算されて取り分ゼロで終わってしまいますから、それなら99%の確率で会社が存続する方に賭けてみるでしょう。債権者はどうですかね? 現状維持なら、自分の債権は半分回収できます。その事業をやれば99%は全額回収できる、でも1%の確率で全損、となると迷うところです。でも結局は、確実に半分は回収できる現状維持を望み、事業はやらないという考えに傾きそうですね。万が一失敗したら…ということです。一般的な感覚でも、やるかやらないか意見が分かれそうだなと思います。

さらに違うシチュエーションで、ある会社の資産が1億円、負債が2億円あるとしましょう。ここで、ある事業を行うと1%の確率で資産が3億円になるけど、99%の確率でゼロになるとしたら、この事業をやるべきでしょうか? 一般的な感覚では、こんな事業に乗り出すなんて馬鹿げている、と思いますよね。債権者も、そんな事業なんかどうでもいいから粛々と清算手続を進めてほしいと言うでしょう。しかし株主は、この状況でも事業をやるはずです。このまま会社を清算すると、資産はすべて債務の弁済に回されて、株主の取り分となる残余財産はゼロ。他方、残余財産がゼロになる以上の責任は負いません(=出資した金額以上の損はしない)。それならば自分の取り分が発生する確率が1%でもある事業に手を出すのは、株主としては合理的と言えます。たとえそれが馬鹿げたギャンブルとしか言いようのない事業であっても、です。しかし、そういう事業って社会的にやる意味あるでしょうか?^^;

 

こうして見てくると、株主はチャレンジングで成長志向、債権者は保守的で安定志向になりやすそうですね。でも、状況によっては株主に経営を任せておくことが社会的に良いとは言い切れないようです。

株主が楽天的とも言えるような行動をするのは、株主有限責任の帰結であるのでしょう。つまり出資した金額以上の責任は負わないという原則であり、これによって多くの投資家から多額の出資を集め、個人個人の投資家や事業家では考えられなかった大規模な事業の遂行が可能になる、とされています。社会がこんなに発達したのは、株式によってお金を集める仕組みのおかげとも言えるわけですね。しかし、状況によっては株主が収益的な事業に駆り立てられているとも見えてくるというか、薬物でリスクを感じなくなった人みたいですよね…。最初にギャンブルの話を出したのは、株式の投資家ってちょっとギャンブラーに似ているなと思ったもので^^; 一方、金融の手段が債権者からの借り入れしかなかったら、ダイナミックな事業展開はなかなか望めず、今のような社会はなかったか、数百年くらい遅れていたのかもしれません。しかし、派手さはないけど長期に渡る安定的な融資が資金供給源になるからこそ、コツコツと積み上げるような事業が成り立つとも言えます。やっぱり、株主と債権者のどちらかだけでは、今の社会は成り立たないのでしょうね。そしてこの両者が分配可能額を挟んで拮抗しているのだと思うと、なかなか危うい関係だなぁと思ったりします。

 

おっと、ゆるゆると思ったことを垂れ流していたらめっちゃ長くなってしまった笑 いい加減ちゃんと試験勉強しなくちゃですね^^;

債権者代位権(3)

今回は、債権者代位権が認められないケースを見てみましょうか。

Dが、Aから賃借した甲土地上に乙建物を所有し、これをCに賃貸していた場合において、Dが乙建物をBに売却したが、甲土地の賃借権の譲渡につきAの承諾が得られないときは、Cは、乙建物の賃借権を保全するために、Bの資力の有無にかかわらず、Bに代位して、Aに対する建物買取請求権を行使することができる。(平成22年 問16-エ)

答えは×です。ここでのDは借地権者で、Dが乙建物と甲土地の借地権をBに売却しています。ところが、借地権設定者Aが借地権の譲渡について承諾しませんでした。こうなるとBは借地権を取得できませんが、それでは乙建物を手に入れた意味がなくなってしまいますよね。そこでこういう場合、BはAに対し建物買取請求権を行使し、乙建物を時価で買い取るよう請求することができます(借地借家法14条)。現存の建物を必ず取り壊さなければならないとすると、社会経済上の不利益であると考えられていることからこのようなルールになっているのでした。

で、乙建物の賃借人であるCは、このままでは乙建物から追い出されることになって困るので、自分の賃借権を被保全債権として、DのAに対する建物買取請求権を代位行使しようとしている、というわけなのですが…これは認められません(最判S38.4.23)。なぜなら、建物買取請求権を行使することによって得られる利益は建物の代金、つまり金銭債権に過ぎないのであって、これによってCの賃借権が保護されるという関係にはならないからです。しかも判決文の中で「買取請求権行使の結果、建物の所有権を失うことは、訴外Bにとり不利益であつて、利益ではない」と言っているのが面白いです笑 CがBの建物買取請求権を代位行使したとしても、Bは建物の所有権を失うし、Cは賃借権が保全されないし、結局Cは何がしたかったのかワケが分からないという事態に陥ってしまいますからねぇ。

ただし、この判例には反対論もあるそうです。CがBの建物買取請求権を代位行使すると、建物買取請求権は形成権なのでCの意思表示だけで乙建物の所有権がBからAに移転します。そしてCは乙建物の引渡しを受けているのだから、自己の賃借権を所有者Aに対抗することができる、その結果Cの賃借権は保全される、というのですね。なるほど〜という気もしますけど、判例が言っているところのBの不利益はどうなってしまうのか、そこが解決されない限り結論は変わらないのかも…と思います^^;

不動産登記法でも、同じく賃借権絡みの代位の登記が出題されています。

土地の買主から賃借権の設定を受けた賃借権者は、当該賃借権について登記をする旨の特約がなくても、当該買主に代位して、土地の売主と共同して当該土地の所有権の移転の登記を申請することができる。(平成21年 問12-ア)

この場合の被保全債権は賃借権者の買主に対する賃借権設定登記請求権、被代位権利は買主の売主に対する所有権移転登記請求権ですが、肝心の賃借権の登記をする旨の特約がありません。この特約がない限り、賃貸人は賃借権の登記義務を負わないのですよね(大判T10.7.11)。つまり賃借人には被保全債権がなく、したがって買主の登記請求権を代位行使することもできません。なので答えは×です。

 

債権譲渡に関して、こんな問題が出ていますよ。

AのDに対する債権がAからBへ、BからCへと順次譲渡された場合において、AがDに対して債権譲渡の通知をしないときは、Cは、Bの資力の有無にかかわらず、Bに代位して、債権譲渡の通知をするようにAに請求する権利を行使することができる。(平成22年 問16-ア)

債権を譲渡する場合、譲渡人から債務者への通知または債務者の承諾がなければ、債権譲渡を債務者に対抗できません。そこで譲受人Cとしては、債権を譲り受けたら譲渡人BおよびAに対してさっさと債務者に通知してくれないかな…と思うわけです。ここで、Cが直接Dに対して通知をしても、Dには対抗できません。譲り受けた人から通知してよいとすると、譲渡を受けてもいないのに勝手に「私が債権を譲り受けたので私に弁済して下さい」と言い出すヤツ(詐称譲受人)が出てくるからですね。この理屈はCがBまたはAに代位してDに通知するとしても当てはまり、譲受人は債務者に対抗できないのです(大判S5.10.10)。それに、債務者への通知は債権者の権利というよりは義務であり、たとえ債権の譲受人といえども他人が代位行使するようなものではないとも考えられているようです。

しかし、譲受人は譲渡人に対して通知請求権を有しています。上の問題で言えば、BはAに対して、CはBに対して、それぞれ通知請求権があるわけです。そこで、CのBに対する通知請求権を被保全債権、BのAに対する通知請求権を被代位権利として、CからAに通知をするよう請求することができます(大判T8.6.26)。これは転用型の事例ということですね。また、譲受人が譲渡人から委任を受けて債務者への通知をすることも可能(最判S46.3.25)ですし、譲受人が譲渡人の使者として通知することもできるのでした。というわけで、問題の答えは○です。

 

話は変わって、いわゆる身分行為(家族法・相続法上の地位の得喪を目的とする行為)のための権利は、代位行使が認められるべきではないとされています。これは、行為者の意思を尊重すべきで、権利を行使するかどうかの決定に他人が介入することは許されない一身専属権とされているからでしょう。ここには、婚姻の取消し、夫婦間の契約取消し、離婚・離縁の請求、扶養請求権、相続人の廃除、親権などが含まれます。これはまあ、当然という感じがしますね。

では、身分上の権利の中でも財産権的な性格を持っている権利はどうなのかというと、こちらも一身専属権と言えるから、債権者が介入するのは適切でない、したがって代位行使はできないと考えられているようです。とはいえ、代位行使が云々される債務者には自己の資力で自己の債務をカバーできない状態になってしまった責任があるのに、身分上の権利というだけで代位できないのでは債務者を保護しすぎ、債権者に厳しすぎ、と考えることもできます。なので結局は、責任財産保全と身分上の権利を行使する意思とのバランスを取っていく、ということになるようです。離婚に伴う財産分与について、こんな問題が出てますね。

BとCとの離婚後、BC間で、CがBに対して財産分与として500万円を支払う旨の合意が成立したが、Bがその支払を求めない場合には、Bの債権者であるAは、Bに代位してCに対し、これを請求することができる。(平成17年 問17-ウ)

こういう場合について最高裁は、「離婚によつて生ずることあるべき財産分与請求権は、一個の私権たる性格を有するものではあるが、協議あるいは審判等によつて具体的内容が形成されるまでは、その範囲及び内容が不確定・不明確であるから、かかる財産分与請求権を保全するために債権者代位権を行使することはできないものと解するのが相当である」(最判S55.7.1)と言っています。具体的内容が形成されていないうちは、債権者代位権を行使できないのです。その一方で具体的内容が決まれば(上の問題でいえば、CがBに対して500万円支払う旨)、それは普通の債権なので代位行使できる、というわけですね。なので答えは○です。

こんな代位の仕方もダメという例がこちら。

債権者代位によって、相続人全員のために相続を原因として法定相続分による所有権移転の登記がされたが、登記名義人中に既に相続の放棄の申述をして受理された者があることが判明した場合、債権者は、相続放棄申述受理証明書を申請書に添付しても、代位によって更正登記を申請することはできない。(平成12年 問15-イ)

これは不動産登記法の問題です。たとえば共同相続人がAとBの2人で、Aの債権者XがAの持分を差し押さえるためにAとBに代位して法定相続分による相続登記を入れたら、実はAまたはBが相続放棄していた、という状況ですね。すると、この相続登記には当初から誤りがあるので、更正登記をしなければなりません。それならXとしては更正登記も代位してできれば好都合だというわけですけど、そんなことができるのかが問われています。

そこでまず、Bが相続放棄していたとしましょう。この場合、AB共有の名義をA単有に更生することになりますが、この更正登記はAが単独ですることはできないので、XはAに代位して単独申請することはできません。そしてBを登記義務者、Aを登記権利者として登記申請するのだから、XはBに代位するわけにもいきませんね。なのでBが相続放棄していたらXは代位による更正登記はできません。次にAが相続放棄をしていたとすると、Aはそもそも相続人ではないことになるのだから、Xは代位による相続登記そのものができなかったということになります。相続登記ができないとすれば、更生登記の話でもなくなりますね。ということでこの場合もXの代位による更正登記はできず、結局答えは○になります。問題文を読んで状況を思い浮かべると一瞬できそうな感じがしてしまうのですが、よく考えるとできないのですよねぇ^^;

 

以上のように、債権者代位の問題って民法不動産登記法のあちこちに出てきます。それだけよく使われる便利な手段ということなのですね。応用範囲が広くて面白い…のは確かなのですが、試験に限って言えば見たことも聞いたこともない事例が出題されたらちょっと困るな、とか思います笑