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刑法の勉強(2)

もう一つ、とても興味深い判例がありました。大学法学部では必ず習うのだそうですね。楽しそうだな〜^^

 

●「たぬき・むじな」と「むささび・もま」

犯罪の成立には、原則として故意が必要です。故意とは他人の権利や法益を侵害することを認識しながら、それを容認して行為を行うことです。「人を殺そう」と思って実行に及んで死なせたら殺人罪が成立するのですね。なぜ故意が必要かというと、故意がある場合は強く非難でき、責任を問えるからでしょう。たとえば「人を殺してはいけない」というルールを法律で定めたとすると、人々は犯罪に当たる事実(人を殺すこと)を認識し、それが違法な行為なのだと知ることができます。にも関わらず、あえてそのような違法な行為に及ぶことを決意した人に対しては、その点に強い非難可能性がある、ということです。そして故意があるかないかは、同じ結果であっても成立する犯罪に大きな違いとなって表れてきます。ある行為によって人が死んだという結果が残ったとき、故意があれば殺人罪が成立するのに対し、なければ過失致死罪または犯罪が成立しないとされるのです。だから故意があるかどうかは、とても重要なところなのですね。

 

で、故意についての有名な判例として、「たぬき・むじな事件」と「むささび・もま事件」がセットで出てくるそうですよ。どちらも大正時代の話で、当時「たぬき」と「むささび」は狩猟法によって捕獲が禁止されていました。そんな状況下でこんなことが起こったのです。

ある人が「むじな」を捕獲した。しかしそれは「たぬき」だった。

ある人が「もま」を捕獲した。しかしそれは「むささび」だった。

…何を言っているのか分からないですね^^; 「たぬき・むじな」では、「むじな」と思って捕まえたら、それは実は禁猟とされている「たぬき」だった、ということです。同じように「むささび・もま」では、「もま」と思って捕まえたら、それは実は禁猟の「むささび」だったのです。というか、何と「たぬき」と「むじな」、「むささび」と「もま」は、それぞれ同じ動物なのですよ。だから「むじな」「もま」と思って捕まえると、現実としては「たぬき」「むささび」を捕まえたことになってしまうのですね。しかし捕獲した人はそう思っていなくて、「たぬき」「むささび」が禁猟であることは知っていたが「むじな」「もま」はそうではなく、自分が捕まえたのは「むじな」「もま」だと思っていたのです。つまり2つの事例は、動物の種類が違うだけで、やっていることは同じなわけですよ。それで、禁猟鳥獣である「たぬき」「むささび」を捕獲したために狩猟法違反で起訴されたのですが、その結果どうなったかというと、

▼たぬき・むじな→無罪(大判T14.6.9)

▼むささび・もま→有罪(大判T13.4.25)

と、正反対の判決が出てしまったのでした。ほとんど同じ時期にまったく矛盾することを言うなんて、大審院はむささび猟は罰するけどたぬき猟は放置するつもりなのか!と思ってしまいますが別にそうではないようです笑

 

故意があるとするためには、意味の認識がなければいけません。何らかの動物を捕まえたとして、それが「たぬき」「むささび」であるとの認識があって初めて故意があると認められるわけですね。そして、この認識は一般人が普通に理解する程度のものでよく、「たぬき」や「むささび」について動物学的な特徴が分かるとか、自分の行為が刑法の構成要件に該当するかどうかとかいうような、専門家レベルの認識は不要です。たとえば覚醒剤の化学的な成分などを知らなくても、それが「身体に有害で違法な薬物」という程度の認識があれば、意味の認識があったとされるそうですよ。

それでまず「たぬき・むじな」の判決文を見てみましょう。

…学問上の見地よりするときは狢は狸と同一物なりとするも、斯の如きは動物学上の知識を有する者にして甫めて之を知ることを得べく、却て狸、狢の名称は古来並存し、 我国の習俗亦此の二者を区別し、毫も怪しまざる所(なり)。…法律に捕獲を禁止する狸なるの認識を欠缺したる被告人に対しては、犯意を阻却するものとして其の行為を不問に付するは固より当然なり…。

なんちゃって意訳してみると、大正時代よりもずっと昔から、日本の習俗の中でたぬきとむじなは別の動物と扱われてきました。大正時代になってからも「たぬき」と「むじな」は別という古来からの認識を疑う人はほとんどおらず、同じ動物という事実を知っているのは動物学を専門に勉強した人くらいだったそうです。それなら「たぬき」を捕まえたとしても、その動物を「むじな」だと思っていたら「たぬき」と認識できなくても無理もないことですよね。そして、法律上捕獲を禁止されている「たぬき」であるとの認識が欠けていたのだから、故意を阻却して被告の行為を不問に付すのは当然だ、とされたのでした。

次に「むささび・もま」の方はというと…

むささびと「もま」とは同一物であるに拘らず、単に其の同一なることを知らず「もま」は之を捕獲するも罪にならずと信じて捕獲したるにすぎざる場合に於いては法律を以て捕獲を禁じたるむささびすなわち「もま」を「もま」と知りて捕獲したるものにして、犯罪構成に必要なる事実の認識に何等の欠缺あることなく唯其の行為の違法なることを知らざるに止まる

こちらの判決文は手持ちの本やネット上で原文が見付からなかったので、LECの予備試験向け判例集から引用しました。そこでこちらもなんちゃって意訳すると、むささびと「もま」は同じ動物ですが、そうとは知らずに「もま」を捕まえても犯罪ではないと信じて捕獲したに過ぎないときは、法律で捕獲を禁じているむささび即ち「もま」を「もま」として捕獲したということです。だから事実の認識に欠けるところはなく、単にその行為が違法であることを知らなかっただけだ、とのこと。仮に「むささび」という言葉を知らないとしても、飛膜があって木から木へと滑空して飛び移る小型の動物という程度の特徴を知っていれば、一般人ならそれが禁猟の「むささび」であるとの認識を持つことは可能、だから故意が認められる、ということのようです。それにしても、法律を知らなかったオマエが悪い!と言われちゃったら、そりゃお手上げですよねぇ^^;

 

個人的には、「たぬき・むじな」と比較すると「むささび・もま」には論理の飛躍を感じます。「たぬき・むじな」では、「たぬき」を捕まえてもそれは「むじな」と認識され、「たぬき」とは認識できないのだから故意はない、というのですよね。それなら被告人にとっての「たぬき」は「むじな」ではない別の動物と認識されていたのでしょう。一方「むささび・もま」では、「むささび」を捕まえてもそれは「もま」と認識されて「むささび」とは認識できないのだから、被告人にとっての「むささび」は「もま」ではない別の動物と認識されているはずです。判決文からは被告人が「むささび」をどんな風に認識していたかは読み取れませんが、そこが明らかにならないと「もま」=「むささび」だから故意が認められる、とは言えないんじゃないかな…と思えてしまいます。

それと「たぬき・むじな」は日本古来の習俗に社会が影響を受けている、だから被告の認識がそうなるのも仕方ない、ということですが、これって論理的には「みんな言ってるよ」というのと何が違うのでしょう? 日本古来の習俗云々というのはつまり、「たぬき」と「むじな」は別の動物だとみんな言ってるよ、だから「たぬき」を「むじな」と認識しても仕方ないよね、ということです。一方「もま」は方言で、「むささび」と「もま」が違う動物という認識は社会で一般的なものとは言えなかったようです。すると「たぬき・むじな」の論理がOKとするなら、「むささび・もま」では「むささび」と「もま」は同じ動物だとみんな言ってるよ、だから「もま」を捕まえたオマエは犯罪者なのだ!とも言えそうですけど、裁判官にこんな幼稚なことを言われたら困惑せざるを得ませんね^^;

 

これら2つの判例は学説が出尽くしたと言われるほど議論されてきたそうなので、上に書いた自分の疑問もスッキリと解消されているのだろうと思います。司法書士試験が終わったら、そういう学説などを探してみますね^^